Naoki Nabeshima's Web Site
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研究業績

番号 掲載雑誌(学会)等 発行年月 ページ
論文タイトル
概要 : 新しいものから古いものへ順に並んでいます。番号は発行順です。

58 真宗学 119・120号 2009(平成21)年3月 249-316
「浄土教における死と慈愛―ホスピスとビハーラの共通性と独自性(二)」
本論の目的は、仏教を背景とするビハーラ活動の意義とその基盤となる親鸞における死と救いについて明らかにするところにある。従来から、ビハーラ活動を進めるにあたり、キリスト教を背景とするホスピスと仏教を背景とするビハーラとが共通する性格を有しつつも、どこにビハーラの特色があるのかを教学として明らかにする必要があった。そこで、この論では、宗教的理念とともに臨床的事例に学びながら、ホスピスとビハーラの共通性と独自性についてそれぞれ解明したい。次いで、親鸞がどのように死を受けとめ、生死を超えた救いを見開いたかについて明らかにし、浄土教を背景とする看取りの姿勢、すなわち、終末期ケアとビハーラ活動のガイドラインを提示したい。
ビハーラ活動の基本理念は、支えあって生かされているという仏教の縁起観に基づき、生老病死の苦しみをかかえた患者と家族に対する敬愛と傾聴に始まり、支援を求めている人々を孤独の中に置き去りにしないように、その心の不安に共感し、少しでも苦悩を和らげることをめざすものである。そして我々自身が、苦しみや悲しみを縁として、自らの人生の意味をふりかえり、生死を超えた心のつながりを育んでいくことを願いとしている。そのビハーラ活動をつきうごかす根底には、尊卑賢愚に拘わらず、すべての人々が仏に願われているという阿弥陀仏の本願がある。
57 京都・宗教論叢 3号 2008(平成20)年12月 21-31
「日本の死生学教育―現代の課題と急務―」(パネル・ディスカッション)
京都・宗教系大学院連合 公開シンポジウム2008
(講演者)カール・ベッカー / (パネリスト)安永祖堂、小原克博、鍋島直樹 / (司会者)中尾良信
56 龍谷パドマ『中村久子女史と歎異抄』 11号 2008(平成20)年11月 45-57
「中村久子女史と歎異抄―生きる力を求めて」
中村久子(1897年11月25日〜1968年3月19日)は、3歳の時、凍傷がもとで突発性脱疽となり、高熱のため、肉が焼け骨は腐った。ある朝、久子の左手首がポロリと崩れ落ちた。久子はやむなく両手両足を切断する手術を受けた。久子が5歳の時、父親の釜鳴栄太郎がある夏の夜、久子を揺り起こし、「久子、死んでも決して離さないよ」と叫んで、久子を抱きしめ床に倒れた。三日後、父親は急性脳膜炎にて死亡した。中村久子は、死別、障害、差別、貧困、結婚などの生活の中で、祖母や母の愛情を受けて、ひたむきに努力した。久子は20歳の時から、見世物小屋の芸人として働いた。母や弟の死、さらには祖母の死、結婚、子どもの誕生、夫の死などのつづくなかで、久子は生きる意味を求めた。41歳の時には、ヘレンケラーと面談し、ヘレンケラーから久子に対して、「私より不幸な、そして偉大な人」という賛辞を贈られた。ひたむきに生きている者同士の心の交流は、国境を越えて深く通いあった。しかし中村久子自身は有名になって講演をつづけるうちに、彼女の心の中に、自分の苦しい経験を人に説いて聞かせているという慢心を見出して悩んだ。中村久子が42歳の時、福永鵞邦に出あい、歎異抄にめぐりあった。久子は歎異抄との出遇いによって、傲慢な自己に気づき、もう一度、自分を育ててくれた見世物小屋へと帰っていった。「手はなくも足はなくとも み仏のそでにくるまる身は安きかな」「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」(『宿命に勝つ』)。「はからおうとしても何一つ自分の力ではからうことをようしない私、はからえないままに、生かされている私」。中村久子にとって、はからいをすて、わが身を省みて、感謝して生きることが自分の生きる道であった。逆境の中でこそいのちは煌めくことを中村久子は私たちに伝えている。
55 龍谷パドマ 9号 2007(平成19)年11月 62-74
「銀河鉄道の夜にみる賢治の妹トシへの思い」 
宮沢賢治には、二歳下の妹トシがいた。トシは賢治にとってよき理解者だった。父親の宮沢政二郎が自ら尊重する浄土真宗と賢治の見出した『法華経』について論争しているときも、妹のトシは賢治の立場を静かに認めていた。大正七(1918)年十二月、トシが日本女子大学校家政学部本科三年のとき、肺炎にかかって入院したとき、賢治は急いで上京し、トシを看護している。トシはその静養中に賢治の短歌を整理、清書した。大正九(1920)年九月に、トシは健康が回復してから、母校の花巻高等女学校教諭心得となり、英語や家事を教えた。この頃、賢治が中心となり、関徳爾らとともに『法華経』の輪読会を開いていたときに、トシもこれに参加していたとされている。賢治が新しく見出した仏教の世界を童話に書き表すようになってから、書きあげた童話を妹のトシや弟の清六たちに読み聞かせていたともされる。しかし、トシは翌年の大正十(1921)年六月頃より、過労のため発熱し、八月に入ってからは喀血した。そのとき、賢治は『法華経』の信仰を求めて上京したが、電報で「トシビョウキスグカエレ」という連絡を受けて、花巻に帰宅した。トシは大正十(1921)年九月に学校の教諭を退職し、療養に専念しましたが、大正十一(1922)年十一月二七日に、結核のため二四歳の若さで亡くなった。このとき賢治は「押入れをあけて頭をつっこみ、おうおうと泣いた」と伝えられる。そのような賢治の妹トシを思う気持ちが、『銀河鉄道の夜』の物語に盛り込まれている。
54 龍谷パドマ 9号 2007(平成19)年11月 33-59
「銀河鉄道の夜の深層」 
『銀河鉄道の夜』は、貧しく寂しい少年ジョバンニが、夢の中で、心の通うカムパルネラと銀河をかける鉄道に乗って旅する物語である。ジョバンニの孤独さの影には、貧しい生活を支えるための活版所での仕事、母親の病、父親の不在、同級生からのいじめがあり、だからこそ本当の心の絆と幸せを求めようとするせつなさがある。「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう」というジョバンニの言葉には、死をこえてつづいていくジョバンニとカムパルネラの愛情の深さが伝わってくる。やがてジョバンニはカムパルネラを見失い、丘の上で目が覚めました。川辺に下りてくると、友達のザネリを助けようとしてカムパルネラが水死したことを知る。人は死んでどこへ往くのか、最愛のひとと別れた後、孤独のなかでどのように悲しみを生きていけばいいのか、死を超えたほんとうの幸せとは何か、そういう大切な何かをジョバンニやカムパルネラ、乗客たちが語り、さらには銀河系に輝く星が深く透明に問いかけてくれる物語である。『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治の著した未完成の最高傑作であり、読者一人ひとりの心境に応じてさまざまな意味を与えてくれる。宮沢賢治はこの長編童話を大正十三(1924)年頃から書き始め、晩年まで原稿に手を入れていたといわれる。大正十三年は、宮沢賢治の二十八歳のときであり、詩集『春と修羅』を上梓した年にあたる。その詩集には、大正十一(1922)年に亡くなった妹トシへの悲しい哀歌「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」などが収録される。この『銀河鉄道の夜』の深層にあるほんとうの幸せの意味、死を超えた愛情について解明する。
53 矯正講座 28号 2007(平成19)年10月 65-89
「悪人の救い―アジャセ王の救いの物語」
いつの時代にも、善と悪が対立し、人類は正義をふりかざして戦い続けてきた。いや、善と善との戦いであったといえるかもしれない。憎しみ、反目、虐待、殺人、戦争、それらは、相手に対する無知や憎しみ、自己中心的な無明から起こっている。善と悪の二元的対立の中で、人間はどのように心の安らぎを求めていけばよいのであろうか。この論考では、アジャセ王の救いの物語を通して、親鸞における悪人の救いについて明らかにする。悪人正機の思想は、仏教の平等思想に基づいている。仏教における平等は、我執が消えた心であり、善悪という相対的な見方を超えたところに見開かれてくる。悪人正機の思想は、悪人に対する慈悲の言葉である。しかしながら、悪を犯し、自他に苦しみをもたらすことを親鸞は決して肯定していない。悪人正機の思想は、自らの悪に気づき、悩み苦しむものを、仏が摂取して決して見捨てないことを示した慈悲の思想である。
52 真宗学研究 51号 2007(平成19)年1月 93-117
「阿闍世の救いの過程」 
この論では、まず、深層心理学における「阿闍世コンプレックス」の意義に注目しながら、仏教独自の罪悪意識を明らかにし、次に、阿闍世が救いに至る道筋を、親鸞がどのように捉えているかを考察し、阿闍世の救いを真宗学の角度から解明する。特に、阿闍世が無根の信を開くまでの救いの過程を解明し、あわせて、清らかな信を得た阿闍世がどのように生きていこうとしたのかについて省察した。人は関係の中にある存在である。暴力は虚しさから起こる。どのような状況においても、仏のように、誰かに願われているとき、人は反省し、前進することができる。救いは突然の奇蹟ではない。深い罪からの救いには長い時間を要する。黙って寄り添う愛情、仏の真実の願いに貫かれて、人は罪に気づき、更正することができるだろう。
51 Buddhism and Psychotherapy: Across Cultures
(Edited by Mark Ty Unno, Wisdom Publication, Boston)
August, 2006 229-252
"A Buddhist Perspective on Death and Dying"
50 文部科学省
オープン・リサーチ・センター整備事業
龍谷大学 人間・科学・宗教ORC
2005年度報告書
(文部科学省
オープン・リサーチ・センター整備事業
龍谷大学 人間・科学・宗教ORC編)
2006年03月 183-214
「宗教と緩和ケア ―いのちへの慈愛―」
49 現代社会と浄土真宗の課題
(信楽峻麿先生傘寿記念論集, 法藏館)
2006年03月 489-516
「浄土教における死と慈愛―ビハーラの八つの視座」
48 Ayus
アーユス仏教国際協力ネットワーク
No.70 2005年12月 6-7
「優しさとうめき−月の愛」
47

人間・科学・宗教ORC研究叢書1
仏教生命観からみたいのち
(武田龍精編,
文部科学省
オープン・リサーチ・センター整備事業
龍谷大学 人間・科学・宗教ORC, 法藏館 )

- 2005年07月 177-220
「仏教生命観の特質―縁起思想の意義」
中村桂子・上山大峻他14名(12番目)
46

文部科学省
オープン・リサーチ・センター整備事業
龍谷大学 人間・科学・宗教ORC
2004年度報告書
(文部科学省
オープン・リサーチ・センター整備事業
龍谷大学 人間・科学・宗教ORC編)

- 2005年03月 75-98
“A Buddhist Perspective on Death and Compassion”
岡田康伸・Mark Unno他28本(5番目)
45 真宗学 111・112号 2005年03月 187-216
「浄土教における死と慈愛―ホスピスとビハーラの共通性と独自性(一)」
44Hans-Ludwig Schreiber, Henning Rosennau, Shinichi Ishizuka, Sangyon Kim(Hg.)
Recht unt Ethik im Zeitalter der Gentechnik
Vandenhoeck & Ruprecht, Gottingen, Germany
May, 200424-36
"Eine buddhistische Perspektive auf die humangenetischeForschung:
 Biothik der Interdependenz"
43真宗学109・110号2004年3月215-259
「仏教生命観の特質 ― 縁起思想の意義」
 仏教生命観に関する今までの研究成果を踏まえながら、はじめに仏教生命観を縁起思想に基づきながら定義した。次に、その縁起思想の語義と独創性を整理したうえで、その仏教生命観が示している特質を4つに整理しながら、存在の意味や人として生きる姿勢について、具体的に明らかにしようと試みた論文である。なお、この論文において、仏教生命観を、このように定義した。「仏教生命観は、時間と空間を超えて、あらゆるものが相互に関係し、支えあっていることを知り、感謝して生きることを教える。また、そのとき、相互に傷つけあっている現実をも知ることになる。人間は、それらありのままを自覚することによって、自己中心的な在り方を反省し、あらゆるものへのわけへだてない慈愛を育んでいくよう願われている。
42真宗大谷派教学研究所 ともしび11月号2003年11月1-8
「さとりと安らぎ ― 縁起の意義」
 仏教におけるさとり、涅槃の安らぎの原意を踏まえながら、仏教の根底にある縁起思想の特質について、4つの角度から紹介した。
41 龍谷大学 人間・科学・宗教 オープンリサーチセンターホームページ -2003年4月1-12
「心の平和 ― 怨親平等への願い」
 戦争は悲しみや虚しさをもたらすともに、次世代や世界中への暴力の連鎖を引き起こす。そこで、人間の暴力や深い怨恨について、仏教はどのような姿勢をとってきたか、また他の宗教と共生しながら、どのような道をとるべきかについて論じた。具体的には、釈尊・親鸞の思想をよりどころにして、仏教における非暴力と寛容の姿勢を明らかにした。
40Echoes of PeaceNo.64JANUARY 20039〜10
"Biotechnology Through a Buddhist Life Perspective"  【全文:pdfファイル】 1.75MB
  Naoki Nabeshima is a professor of Shin Buddhist studies at Ryukoku University. His research focuses on Pure Land Buddhist thought in China and Japan, particularly on Shin Buddhism and its relevance to such issues as spiritual approaches to end-of-life care and care for the elderly.
39龍谷法学第三十五巻
第三号
2003(平成15)年1月53(457)〜76(480)
「ヒト遺伝子研究に関する仏教からの視座:縁起のバイオエシックス」  【全文:pdfファイル】 378KB
A Buddhist Perspective on Research of Human Genome Bioethics of Interdependence
 縁起のバイオエシックスは、私たち人類が、あらゆる存在と一つであるという感覚(万物一体観)を養うことも求める。人類の幸福だけを追求する功利主義的なバイオエシックスは、あらゆるものが相互に支えあって生きているという縁起のバイオエシックスに方向を転じていくべきであると考える。科学と仏教との間には深刻な対立はない。仏教と科学は相互の知見を分かち合い、人類と地球に恵みをもたらすように導くことが願われる。ただ科学に極端に依存しすぎてはならない。なぜなら科学技術の応用には光と影があるからである。その意味で、科学の進歩にある程度の規制を加えるシステムをもつことが必要である。先端科学技術に対する仏教の態度は、近代科学の弊害のみを指摘して、科学を否認し、自然に回帰せよという態度をとらない。世界のさまざまな宗教者と科学者は協調しあい、相互に依存しながら、生きとし生けるものに恵みをもたらす方向を探求していく必要がある。この論では、はじめに日本におけるヒトゲノム研究に関する基本原則を紹介したい。次に仏教の生命観、特に縁起思想を通して、遺伝子研究のあり方に関して提言を行いたいと思う。
 注意しなければならない点は、遺伝子研究の目的が明確であるということである。遺伝子研究は、人の生命のしくみを生物学的に解明することと、疾病の予防と治療などの医療に限って用いられるべきである。たとえばヒトゲノムを改変して、あらかじめ特定の遺伝的形質をもったヒトを誕生させてはならない。遺伝子操作の悪用によって、生命の多様性を減少させたり、未来の世代にわたる生命の健康と安全性を侵したり、特定の人間の欲望のみを満たしたりすることに用いられてはならない。動機が悪いと知りつつ科学技術を応用することは、知らないで行った行為よりも、さらに自他ともに不幸におとしめる結果を未来に生じることになる。自己だけでなく他者にとっても、現在だけでなく未来においても、身心の安らぎをもたらすように行為すべきであるというのが、仏教徒の願いである。
 最も重要なことは、遺伝的な疾患を抱えていたとしても、それはかけがえのない一つの個性であるということである。さらに遺伝子や受精によってのみ個人の独自性が決定するのではない。むしろ、その人の生き方を通して、個人のかけがえのなさは培われる。仏教は生まれによる差別を決してしない。なぜなら人はさまざまな縁と努力によって、かけがえのない人に成長できるからである。いかなる遺伝子を有していても、人は環境によってユニークで自由な人生を切り開くことができる。したがってヒトゲノム研究がどれだけ進んでも、人間の間には何の違いもなく、私たちは同じ仲間であるという共感と尊敬を育んでいかなければならない。

キーワード 〈縁起〉〈科学と仏教〉〈無常〉〈慈悲〉〈個のかけがえのなさ〉〈遺伝子研究の目的〉
38宗教と倫理(宗教倫理学会)2号2002(平成14)年10月3〜22
「ヒトES細胞の医療への応用に関する仏教からの一考察」  【全文:pdfファイル】
A Shin Buddhist Perspective on the Application of Human Embryonic Stem Cells for Medical Treatment
 科学と仏教は二律背反的な関係ではない。仏教と科学は相互の知見を分かち合い、人類と地球に恵みをもたらすように導くことが願われる。ただ科学に極端に依存しすぎてはならない。なぜなら科学の応用には有益性と危険性とがあるからである。その意味で、科学の進歩にある程度の規制を加えるシステムをもつ必要がある。この論では、はじめに、2001年9月25日に文部科学省から発表された、日本の生命倫理委員会「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」の概要を紹介したい。次に大乗仏教の生命観、特に親鸞におけるいのちの見方を通じて、ES細胞の医学的応用の倫理的な意味づけについて考慮したい。
 根本的に、ヒトES細胞の使用目的を明確にする必要がある。ヒトES細胞の応用技術は、どこまでも白血病・パーキンソン病・筋ジストロフィーなどの難病治療のためだけに活用されなければならない。人間の育種を含めて、生命の健康や安全性を侵すことは、バイオテクノロジーの悪用に他ならない。縁起の生命倫理(Bioethics of interdependence)は、私たちが単に有用性の判断だけで、生命操作を行うことを決定してはならないことを意味する。
37印度学仏教学研究(日本印度学仏教学会)第50巻1号2001(平成13)年12月52〜58
「親鸞における生死観」
Shinran's Reflection on Birth-and-Death
 この論では、生死の現実とその超克を明らかにするために、親鸞における生死の把捉を七つに分けながら考察する。親鸞が生死輪廻の苦しみの現実を示す用語としては、(1)「生死輪転」(2)「生死苦海」(3)「生死罪濁」(4)「生死無常」があげられ、親鸞がその生死の迷いを超えていく道について示した用語としては、(5)「出離生死」(6)「生死即涅槃」(7)「入生死薗」があげられる。生死を超えることは、如来の悲願に帰命信順するところに成立し、彼岸へ往くことも、彼岸から此岸に還ることも全て如来の本願力による。親鸞において生死を超える生き方とは、さとりにとどまらず、自利利他の円環的な働きに生きることである。迷いから悟りへ往き、悟りから迷いへ還ってくるという、終わりのない情熱が、人間の生きる力となる。仏教徒が、この安穏への道をともに歩み、死を超えて、互いに師弟となって導きあうことが、生死出離の道であり、自他安穏をめざす大乗仏教の真髄である。
36龍谷紀要23巻1号2001(平成13)年9月1〜17
「エンゲイジド・ピュアランド・ブディズムの探求 ―親鸞における真宗と学」
A Quest for Engaged Pure Land Buddhism: Shinran's Reflection on Shin Buddhist Studies
 はじめに、仏教研究の二つの目的を定義し、次に、親鸞の文献における「真宗」と「学」の用例を取り上げて、親鸞が「真宗」と「学」をどのような意味や文脈で理解しているかを整理し、真宗学の目的を定義する。また1970年代以降、世界では、エンゲイジド・ブディズム(「社会に密接に関わる仏教」「縁によって支え合う仏教」)が大きく注目されている。エンゲイジド・ブディズムとは、ティク・ナット・ハンやダライ・ラマ、およびBCA(アメリカ浄土真宗)に象徴されるように、大乗仏教の慈悲・自利利他の精神、仏教の非暴力の姿勢に基づいて、世の中の苦しみを和らげるために社会的に貢献する仏教を意味する。この論考では、第一に、村上速水「親鸞教義の特殊性と普遍性」および信楽峻麿「真宗学方法論序説」によりながら、真宗学の目的、領域、方法について再考察する。第二に、アルフレッド・ブルーム「世界に関与する浄土教(Engaged Pure Land Buddhism)」の理念と意義を紹介し、人の苦しみの解決に関わる真宗学の姿を探求した。
35真宗学(龍谷大学真宗学会)103号2001(平成13)年1月32〜58
「縁起のバイオエシックス ―人クローンに関する浄土真宗からの一考察」
 1999年6月に、ジェンシン・アンダースンがボストン大学の国際学会「人クローンと遺伝子操作」で提言したように、クローン技術および遺伝子工学の規制と応用のあり方については、世界中の科学者が交流して、国際的に協調したものであることが必要である。浄土真宗の仏教徒もまた、このクローン技術を考える過程に参加して、異なる宗教者と対話し、またさまざまな医学、生物学、倫理学、法学、政策学などの人々とともに考えていきたい。浄土真宗の仏教徒は、人間と地球の両者に恵みをもたらすような倫理への洞察を提供することができるだろう。この論では、はじめに日本におけるクローン技術の水準と、日本科学技術庁の生命倫理委員会の報告を紹介したい。そして大乗仏教の生命観、特に浄土真宗の伝統に導かれたいのちの見方を通じて、人クローン個体の可能性について考慮したいと思う。浄土真宗は日本中世の親鸞(1173〜1262)によって開かれた大乗仏教であり、あらゆる衆生の心の救いとめざめは、阿弥陀仏の本願他力を通してもたらされると明かしている。このような縁起のバイオエシックスに基づいて、人クローンに対する姿勢について、五つの提言を行った。
34龍谷大学論集457号2001(平成13)年1月1〜14
"A Shin Buddhist Perspective on Human Cloning: Bioethics of Interdependence"
Abstract
I am certain that we all agree that regulating cloning technologies and genetic technologies should be established through international collaboration. I hope that Jodo Shinshu Buddhists will also join in this process through dialogue with others religious thinkers together with scholars of ethics, law, medical science, and biology. Shinshu Buddhists can offer their insights towards an ethic that will benefit both humans and the Earth. In this paper, I will outline the Japanese National Bioethics Committee's interim report and interpret the possibility of human cloning through the Mahayana Buddhist vision of life, especially as informed by the Jodo Shinshu Buddhist tradition. Jodo Shinshu is a Japanese Buddhist denomination, found by Shinran (1173-1262), a Japanese cleric. Unlike Zen, Jodo Shinshu believes that spiritual release and realization is achieved through Other Power. I focus my discussion on Buddhist attitudes toward human cloning.


付記:
 この論文は、1998年度国外研究の一成果である。1999年6月1・2日にボストン大学法学部講堂で国際会議「クローン技術と遺伝子工学」が開催された。この論文は、その国際会議に招待され発表した内容に、特に親鸞の生命観を加筆して論文にした。なおボストン大学のジェンシン教授ならびにGTU(総合宗教大学院)のロナルド仲宗根教授にボストン大学での発表の機会をいただいた。
33"Issues for the Millennium: Human Cloning and Genetic Technologies"
On-line Publication, Boston University Press.
August 2000-
"Bioethics of Interdependence: A Shin Buddhist Reflection on Human Cloning"
This issue's web site is http://www.bu.edu/bioethics/ .
This paper's sequence is as follows:
Introduction: What is bioethics of interdependence?
  1. Interim Report of the Japanese National Bioethics Committee's Commission on Science and Technology
    1. The state of cloning technology
    2. The Japan commission 's position on cloning
  2. Buddhist attitudes towards life
    1. Interdependence
    2. Shin Buddhist Understandings of Interdependence
  3. Bioethics of Interdependence and Cloning Technology: Five proposals on human cloning
    1. We should not make decisions solely on utilitarian judgments.
    2. A bioethics of interdependence emphasizes the holistic relationship of life in its entirely and harmonious coexistence with all beings and all things. Cloning technology can cure the diseases of animals and plants, and protect endangered species.
    3. Cloning technology should not lead to the reduction of biodiversity.
    4. If a cloned human is someday born, she/he should be recognized as an irreplaceable and precious human being. All lives must not be discriminated by birth.
    5. A fundamental life force is at work in a cloned cell allowing life to mature into a human being.
  4. Conclusion
32日本応用心理学会第65回大会発表論文集(シンポジウム抄録)1999(平成11)年2月43
「親鸞における死別悲嘆のケア ―ビハーラの意義」
 日本応用心理学会大会において高嶋正士(共立女子大学)の企画進行で「ターミナルケアと応用心理学」という公開シンポジウムが開催された。この論は、そのシンポジウムでの鍋島の発表抄録であり、ビハーラの理念と実践、親鸞における死別悲嘆のケアの姿勢について論じた。ビハーラは「精舎・僧院」「身心の安らぎ」「休息の場所・病院」を原意とし、病気の比丘(仏教徒)を臨終に至るまで、その比丘仲間が温かく看取る活動である。1984年田宮仁によって提唱されてスタートしたビハーラは、ホスピスの精神に学び、仏教・医療・福祉のチームワークによって、患者を孤独に置き去りにしないように、全人的に支援する看取り、施設を意味する。また死別悲嘆そのものに意義があることについて明かした。
31村上速水喜寿記念『親鸞教学論叢』所収(永田文昌堂)1999(平成9)7年5月312〜335
「覚如教学の特質とその背景(二) ―覚如の行信理解と仏道の構造」
 覚如の行信理解の特徴を、信心正因称名報恩、一念往生、信心の成立における善知識の重視、信心の心相に分けて考察した。その考察によって、覚如教学の特徴が、名号を信の対象とする所行派、聞名の重視、信心正因称名仏恩報謝にあり、その仏道構造は、善知識により開悟されることに始まり、行信次第と信行次第の両面から捉えることができる。また信心は、本願への帰托を意味し、如来の仏智が「聞」を通して凡夫に授けられた仏心、仏智として理解され、機法一体の構造をもっていることを論じた。
30真宗学(龍谷大学真宗学会)96号1997(平成9)年3月1〜31
"Buddhist Attitudes toward Abortion : 5Suggestions"
 「仏教からの中絶への姿勢:5つの提言」の英文論文。
29龍谷大学論集449号1996(平成8)年12月1〜43
「蓮如における無常観の特質(一)」
 蓮如の無常観の特質を明らかにするために、特に蓮如『御文章』に見られる無常に関する全リストを作成し、蓮如における無常観の推移をグラフで表し、また無常観の特徴を論じた。この論の構成は、仏教における無常の原意趣、無常に関する執筆数の推移、無常の強調された思想的背景とその特徴(七点)から成っている。
28龍谷大学理工ジャーナルVol.8-21996(平成8)年10月1〜7
「仏教からみた安楽死・尊厳死の問題」
 安楽死、尊厳死の用語を、慈悲殺(mercy killing)、自発的積極的安楽死(voluntary active euthanasia)、尊厳死(death with dignity)の3つに分類して定義し、その安楽死や尊厳死が、仏教の死生観からみてどういう問題を持っているかを考察した。特に法然と親鸞がさまざまな死のプロセスの善悪を問わずに受けとめた事例に注目した。その上で、仏教の死生観と尊厳死との共通点を三点あげ、また仏教の死生観と安楽死、尊厳死との質的な相違点を三点あげた。仏教は安楽死を第一の理想とせずに、つねに予想を超えた死の縁を受け入れ、個性ある死を見守ってきたこと、また死に方よりも平生における人間成長を重んじたことを明らかにした。
27真宗学(龍谷大学真宗学会)94号1996(平成8)年3月30〜49
「覚如教学の特質とその背景(1)」
 親鸞の曾孫にあたる覚如の教学が生み出される歴史的背景と彼自身の修学プロセスを考察した。覚如は対外的には浄土宗などに対して、法然教学を継承する親鸞思想の意義を明らかにし、対内的には、親鸞没後に多様化した真宗門徒を一つにまとめるために、呪術的要素を廃した親鸞教学の超勝性を明らかにしようとした。その覚如教学の基本姿勢は、廃立の見方にある。そこで村上速水、普賢晃寿、信楽峻麿、宮崎円遵らの研究成果によりながら、さらにその覚如の教団教学の特質を明かした。
26『仏教』 特集 生命操作 (法蔵館)341996(平成8)年1月120〜129
「生命操作を仏教はどう見るか」
 脳死・臓器移植をめぐる仏教界の意見を、1.肯定的意見、2.慎重的意見、に分けて紹介し、今後に残された課題を提示した。さらに仏教生命観の特質を解明するために、二つの命の見方を論じた。
25龍谷大学論集第446号1995(平成7)年6月262〜287
「震災救援につながる真宗学の可能性(1) ―被災心理と心のケアを考える」
 大震災で家族や家を失い、心に深い傷を負った人々の心理を紹介し、あわせて仏教者が震災という大災害をどのように受けとめようとしてきたかを明らかにする。今後起こりうる震災の際に、被災地の人々を支援する手がかりをこの論で表した。この論では、まず被災者に共通する被災心理や心の傷の諸相を分析し、特に自分だけが生き延びたことの罪責感が大きいことに注目した。次に、その心のケアと仏教からの精神的支援のあり方を、事例をあげながら9点にわたって論じた。
24平成6年度「生命と倫理を考える」シンポジウム輯録集
(愛知県医師会・名古屋市医師会)
1995(平成7)年2月-
「仏教からみた脳死・臓器移植の問題」
 平成6年7月30日に愛知県医師会館において、「脳死と移植救命の第二段階を迎えて」というシンポジウムが開催され、文化・宗教的な視点からそれぞれ発表し、鍋島は仏教界の意見の紹介とともに、立法化をめぐる問題を指摘した。脳死状態を目の当たりにして動転している家族が、患者にかわって移植を承諾する問題、レシピエントの優先順位の決定の問題、移植を受けた人のアイデンティティが混乱する問題などを指摘し、命を功利的な価値として優劣をつけて捉えるのでなく、意味として捉える、すなわち、一つ一つの存在が賜っているかけがえのなさに気づくことによって、さまざまな対応が見守られるべきことを論じた。
23印度学仏教学研究(日本印度学仏教学会)第42巻1号1993(平成5)年12月310〜315
「法然・親鸞からみた尊厳死の問題」
 法然・親鸞において人間の死のプロセスにおける死苦や死に様をどのように受けとめているかを解明し、尊厳死の問題と意義について、仏教の立場から論じた。
22真宗研究(真宗連合学会)37輯1993(平成5)年1月18〜32
「親鸞における死の把捉」
 親鸞は平生における信心の確立を重視し、それに基づく念仏往生を明かし、いわゆる臨終来迎の救いからは離脱していた。親鸞においては、信心においてすでに往生することが定まり、来迎の儀則はもはや必要なかった。また親鸞における「長生不死之神方」などの死に関連する表現に注目し、その青年時代から無常を感じ、後世を解決する道を心に求めつづけていたことを考察した。さらに親鸞が門弟の死をどのように受けとめていたかについて考察し、往生浄土の意義、および死態にとらわれない救いの意義を明らかにした。
21医療と社会第2号1992(平成4)年12月14〜16
"Problems on Life-control from A Buddhist Perspective"
 「仏教からみた生命操作の問題」の英訳。
20医療と社会第2号1992(平成4)年12月3〜13
「仏教からみた生命操作の問題」
 医学界からの依頼を受け、仏教から生命操作をいかに考えるのかについて、特に臓器移植の問題を中心に論じた。内容は以前に記した社会学研究年報22号に修正加筆したものである。
19印度学仏教学研究(日本印度学仏教学会)第41巻1号1992(平成4)年12月169〜173
「仏教からのバイオエシックス」
 仏教からバイオエシックスに取り組む姿勢については、欧米のバイオエシックスの潮流や内容に謙虚に学び、そのうえで仏教の生命観の特質を明らかにして、文化的背景のことなる国際社会のなかで、ネゴシエ−ションを通して、世界に共通するバイオエシックスを形成してゆくことにある。この論では、特にカイザ−リンクにおける生命の尊厳と生命の質との関係、エンゲルハ−トの個人主義的な自由主義やパ−ソン論の問題を取り上げて検討した。そのうえで仏教が功利主義的な生命操作に否定的であることを論じた。
18真宗学(龍谷大学真宗学会)87号1992(平成4)年12月29〜52
「日本浄土教における死の看取り(下) ―仏教からの死生学のために」
 法然における死の把捉と死の看取りの問題をはじめに考察し、その後、弁長・良忠に展開するきめ細やかな臨終行儀と、親鸞に展開する平生摂取の救いについて考察し、最後に死の看取りの意義を5点にまとめ、浄土教におけるタ−ミナルケアの特質を明らかにした。
17龍谷大学論集第440号1992(平成4)年6月58〜86
「日本浄土教における死の看取り(上) ―仏教からの死生学のために」
 死生学の目標は、死をめぐる悲嘆や孤独などの問題を、医学的、生物学的な角度から、敗北、停止として分析して終わるのではなく、死を通して自己の新たな生の次元を開き、他の人々との共感を育んでくれるものとして見直してゆくところにある。そこで日本人の死生観の特質を指摘し、次に、仏教における死の把捉と死の看取りの内容、さらに浄土教における曇鸞・道綽・善導・源信における死の看取りの内容を考察した。特に源信の『往生要集』の臨終行儀および二十五三昧会の活動内容や源信の臨終、および後世への影響について注目して論じた。
16社会科学研究年報(龍谷大学社会科学研究所)第22号1992(平成4)年3月107〜127
「仏教からみた生命操作の倫理的問題 ―脳死・臓器移植をめぐって」
 はじめに脳死・臓器移植をめぐる世界情勢、法的・経済的な問題−脳死・臓器移システムの問題を紹介し、仏教学者からのさまざまな意見を整理し検討した。そのうえで、生命操作にあたっては、一律に強制されるものではなく、個人の生活環境や宗教的信念を尊重して対応すべきことをまとめた。それと並行して、死の教育の必要性や、生命操作が過剰に行われることに対する問題を指摘した。後半は、エンゲルハ−トが、そのパ−ソン論において人格を3つに序列化し、成人社会にとって有益となる場合は、幼児・胎児・ひどい知恵遅れのヒトなどの生命を所有し、利用してもかまわないとしていることを紹介し、「最大多数の最大長命をめざす」バイオエシックスのもつ問題点について指摘した。
15仏教文化研究所紀要第30集1991(平成3)年12月26〜41
「法然における死と看死の問題 (三)」
 法然は臨終行儀に一応の理解は示しているものの、死の看取りや死態にあまり拘束されない面もみられる。この論では、法然における平生重視の思想や「臨終の沙汰」の問題に注目し、法然が死の看取りに関して、その行儀の形式や浄穢の斉忌に一切とらわれず、念仏道を主眼にしたきめ細やかなケアを勧めていたことを論じた。また法然自身の死への道程を、図表化して検討しながら、その3つの特質をとりあげた。法然は人間の生生しい死の現実を踏まえて、臨終行儀の形態を自由化し、死に際に左右されない往生の道を新たに啓拓していったのである。
14龍谷大学論集第436号1990(平成2)年7月272〜299
「法然における死と看死の問題(二)」
 法然の臨終看死に関連する資料を年次順に調査して並べてみると、建久九年(1198)頃に書かれたものが多く、その年の法然自身の病苦体験をもとに死と看病の心構えを記したと推測される。この論では、法然が臨終行儀を受容しながら、誠実に念仏道を歩んだ者には、仏力によって最期は臨終正念往生が確実にとげられると明かしたところを中心に論じた。
13龍谷大学論集(創立350周年記念特集号)第434・435合併号1989(平成元)年11月137〜155
「法然における死の看死の問題(一)」
 法然浄土教における対機説法的な寛容さを指摘した上で、法然自らが平安末期以来の主流となっていた臨終来迎について、いかに捉えていたかを論じた。その救いは、平生の念仏修習にもとづく決定往生にはじまり、ついにはその結果として、臨終正念往生が仏力によって自然にもたらされるという人生全体の大きなスパンのなかで捉えられていたことを明らかにした。
12真宗学(龍谷大学真宗学会)79号1989(平成元)年1月1〜27
「親鸞における信と肉体性 ―道元と比較して」
 仏教は主体者の全人格、身心全体にかかわる行道および聞法−道元の身心把捉にもとづいて真理を把捉するものである。まず出家仏教の道元においては「身心一如」の立場を踏まえ、身体の真実性を重視していた。しかし道元に比べて、親鸞は、身と心の煩悩性をくりかえし内省している。そして親鸞はその身心の煩悩性を自覚するとともに、そこに貫徹する本願の真実性を同時に自覚しており、その意味で、親鸞における信心が、本願に光触することを通して、自己の肉体性や業異熟性に深くめざめていくという構造であることを明かした。
11印度学仏教学研究(日本印度学仏教学会)第37巻1号1988(昭和63)年12月168〜173
「親鸞における身心の把捉」
 仏教における思惟形態は知的思弁ではなく、仏道という身心全体に関わる全人格的思惟形態である。そこで解脱もまた身心両面にかかわる体験であり、頭脳的に思考するだけではとらえられない領域をもっている。親鸞においては、身心全体に本願が光触するといいつつ、内実としては、自己の身心全体の虚妄性の根深さが自覚されている。このように親鸞における救いは、単なる心の救いだけではなく身心全体に浸透する救いであったことを明かした。
10仏教文化研究所紀要第20集1987(昭和62)年12月27〜36
「死の臨床における仏教カウンセリング ―真宗看病講式試案」
 死にゆく人間を治療対象の患者としてではなく、かけがえのない固有の存在として接するために、カウンセリングと仏教とにおける一成果の両面から支援する方法を考察した。カウンセリングは肯定的な人間観にたって、患者自らが現在かかえている死の不安をコントロールして、現実によく順応するように援助するという対症療法的な側面をもっている。 これに対して仏教は、否定的な人間観に立ち、臨終までかぎりなく虚妄でありつづける自己を偽らずに見つめ、現実の価値観や心の迷いに左右されない真実価値を拠り所として生きることを教えている。ともすれば教条的な角度から、仏教の伝道をしがちであったことを省みて、相手を主体としたカウンセリングに学び、仏教からの心の支援のあり方を論じた。
9印度学仏教学研究(日本印度学仏教学会)第35巻1号1986(昭和61)年12月207〜210
「浄土教における臨終の問題 ―法然・親鸞を中心として」
 浄土教においては、随唐の中国の頃より、相互の死を看取る親鸞を中心とし ことを尊重する運動があった。特に日本では、源信の『往生要集』に導かれた二十五三昧会がその出発点となっている。しかし後の法然は、臨終行儀や死態を重視する側面と、それらを自由化した側面との二面があった。親鸞はその後者の流れを承け、臨終来迎を待つことをやめ、平生における救いを重視した。また死まで消えない自己の虚偽性を見つめつづけている。
8真宗研究会紀要19号1986(昭和61)年3月26〜38
"Problems Concerning Death Through Shinran's Reflection"
 現代は個人の死を忘れた社会である。それは病院死が70%を超えて、日常生活から死が遠のいたためである。親鸞における死の超克は、平生において信心を確立することを第一とし、死に際の美醜については、「臨終の善悪をばまふさず」と記して、一切問題にしていなかったことがわかる。(英文論文)
7真宗研究(真宗連合学会)30輯1986(昭和61)年1月35〜51
「親鸞における行道の深層的考察(二)」
 原始仏教における行道の特質には、(1)出世間性(世俗から出世間への志向)、(2)持続性・反復性、(3)心の澄浄化の働きなどがあげられ、また時間的には、信→行→慧という発展的構造をとる。親鸞における行道理解も、この仏道の基本的な性格を継承している面があるが、さらに啓拓していった側面がみられる。それは行全体を自己の足場とし、行自体が目的化した念仏を自力として選捨した点である。
6印度学仏教学研究(日本印度学仏教学会 東京大学)第33巻2号1985(昭和60)年3月237〜241
「臨床的次元からの念仏の研究」
 臨床的次元からの念仏研究とは、歴史学、解釈学を助けとしつつ、人間の宗教経験にスポットを当て、教義や宗教表現(上部構造)の論理を裏付けている下部構造を明らかにして、理論と宗教経験との有機的な関係を分析し、念仏の意味を宗教心理学的な次元から再考した。
5龍谷大学大学院紀要第6集1985(昭和60)年3月1〜21
「浄土における行道の深層的考察 ―臨床的念仏研究のための一試論」
 キリスト教などの西洋思想には行の思想が希薄であるのに対し、仏教では行道、修行は、人間成長、宗教的な開覚をとげてゆくための方法、プロセスとしてなくてはならないものとされている。親鸞における念仏は、三願転入して真の信心にいたるプロセスにおいては、不断の反復相続を重視していたが、ついに第十八願に転入するときには、人間の能動的なはからいが一切放棄され、仏から自己へという方向で行が理解されている。
4真宗研究会紀要18号1985(昭和60)年3月18〜51
「親鸞における浄土の深層的考察 ―死・疎外との接点」
 宗教が世俗化した現代においても、死や自己疎外の問題は残っている。浄土とは、死や自己疎外をどのように超克した世界観であるかについて考察した。一般的には、浄土は慰めやこの世の代償としてなどと理解されがちであるが、本来浄土は純粋未来の存在でありつつも、この現在における信心の自覚(第一人称の自覚)に成立し、死の壁を突き抜けて心をつなぐ第二人称の世界であることを論じた。
3龍谷大学大学院紀要第5集1983(昭和58)年3月61〜64
「浄土思想の展開とその本質」
 浄土の真の意味を解釈するためには、主体者自らが仏道に立って追体験することが必要である。今まで浄土はともすれば死後の神話的な慰めして受けとめられがちであった。それは理性的にのみ浄土を捉えようとしたり、実体的に浄土を捉えようとしたところなどに原因が考えられるが、本来の浄土は、穢土を内省した、さとりの世界観であることを論じた。
2真宗研究会紀要16号1983(昭和58)年3月1〜48
「宗教的象徴論序説」
 宗教的象徴とは、体験的・超歴史的な側面と客観的・歴史的な側面とをあわせもった宗教表現である。その特徴には、(1)非本来性、(2)指示性、(3)真理の開示性、(4)関与性、(5)信の開示性、(6)非創作性、(7)生滅性、(8)内在力性などがあり、言葉を超えた宗教経験、さとり体験を言説化したものであると論じた。
1真宗学(龍谷大学真宗学会)65号1982(昭和57)年2月57〜74
「浄土 ―その存在と自己」
 浄土の存在意義を再解釈するために、宗教的象徴(Religious Symbol)という解釈学的なアプロ−チが必要であることを明らかにした。浄土とは、さとりを世間的な言葉によせて表現した、超表現の表現、出世間の世間化であり、その表現の象徴する浄土の性格は、智慧を根本とした、内在而超越、超越而内在の世界であることを論じた。


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